2014年 07月 10日
「この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」 門田隆将 |
「この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」 門田隆将
Posted by: 月森
2011年1月30日 23:27
漫画じゃない本の感想
http://tsukimori.sakura.ne.jp/2011/01/post-497.html
事実は小説より奇なりと言うけれど、よもやここまでフィクショナルな将軍が旧日本軍に実在していたなんて思いもよらない事実でございました。その名は根本博陸軍中将・旧駐蒙(モンゴル)軍司令官。
裏表紙にある丸眼鏡・海坊主の面貌はいかにも無能、天皇の権威を笠に自己犠牲を他人に強いて踏ん反り返ってそうな旧軍司令官風だというのに、その人柄と きたらまるで僕の信奉する「銀河英雄伝説」(田中芳樹著)に登場するビュコック提督のお茶目さとメルカッツ提督の実直さをブレンドしてヤン・ウェンリー提 督の理念を垂らしたカクテルがごときふくよかさ。しかも陸軍幼年学校からのエリート街道を突っ走ってきた高級軍人だというのだから驚きだし、魅力的だし、 熱すぎます。まさに名将。銀英伝好きの硬派な諸兄なら読まなきゃならん本でしょう。
ポツダム宣言を受け入れ日本は連合国に対し無条件降伏、それはただちにすべての戦闘行為の終結を意味すると僕らは思いがちだけれど、"忍びが たきを忍び"との天皇陛下の玉音放送を外地で拝聴した駐蒙古軍司令官・根本博中将は、中立条約を結んだにもかかわらず劣勢と見るや容赦なく侵攻してくるソ 連軍の卑劣な本質を知悉し、戦闘状態にある彼らに対しただちに武装解除しては蒙古に居住する邦人3万の生命が危ういと判断。
信頼の置ける中国・国民政府軍指揮官が到着するまで、"忍びがたきを忍び"陛下の命を無視し、彼らが安全な地域に移動するまでの間、ソ連軍の猛攻から守備地を死守するのです。
「ただ、私が守らなければならない人たちの命を、私は守ればいい。そして、すべての責任を一身に背負って「死に切る」だけでよい。それだけでいい のだ」――彼の胆力と深慮と実行力は、友軍の関東軍が総崩れの後に武装解除したためソ連軍に捕われ、厳寒の地に抑留された多くの邦人の辛酸なる人生を思え ばもうじゅうぶん偉人に列せられるべき功績だといえるでしょう。
しかし根本中将のエピソードは終戦で終わりません。在留邦人3万人が内地に辿り着くまでの安全を確保してくれた国民党・蒋介石総統に対する個人的 な恩義と、日本の天皇制の存続に関する連合国側の「カイロ会談」で同氏が「日本国民が自由な意志で自分たちの政府の形を選ぶのを尊重すべきである」と発言 したことに軍人としての恩義を強く感じた中将は、毛沢東率いる共産党軍に大陸各所で敗退し台湾の維持すら危うい事態に直面している蒋介石を援けるべく馳せ 参じるのです。一か八かの密航という手段で……。
大陸では既に中華人民共和国が成立し、かつて共同して旧日本軍に抗したアメリカにすら見放され、世界中の誰もが国民党軍の負けを確信していた、まさにそのとき、ただ蒋介石の恩義に報いるためだけに、同氏から直接招請されたわけでもなく、しかも危険を冒してまで……。
人格的に優れているとか政治家として偉大だったかどうかはともかく、一国家の代表として蒋介石には野心があり、思惑もあったでしょう。知略に優れ た根本博中将の思いがけない来援を歓迎し、すぐさま部下の軍最高司令官付軍事顧問に就かせるなど丁重に扱ったのは、彼の深い好意に敬意を表する情緒的対応 という以上に打算があったのはまず間違いありません。共産党軍に対し圧倒的劣勢であった国民党軍はまさに"藁をもつかむ思い"だったろうから。
ただ、そんな蒋介石の霧深い心中に比してあまりにも容易く晴れやかに断言できるのは、根本中将にとってそれは何の利益もない行為だということ。ましてイデオロギーも名誉欲もない、ほんとうに「義」くらいしか残ってない。そう、ほんとうに「義」だったんだ。
死に場所と定めてやってきた根本中将は、より多くの味方を生かすべく行動を開始。守備に難く住民も多く自給もできないという厚門島の弱点を見抜い て放棄すべきだと提案し、天然の要害にして自給可能かつ住民も少ない金門島で共産党軍を迎え撃つべく陣地や塹壕の造営を直接指示。さらに類まれなる戦術眼 によって、常勝の驕りから大兵力の力頼みで来攻する敵の行動をほぼ精確に予測し、退路を断ち来援を遮断した上で完膚なきまでに包囲殲滅! このあたりのド ラマは正直、ノンフィクション枠内での再現ドラマという体裁を取る本書では明らかに役不足だったが(映像化が待たれますね)。
しかし僕の物足りなさ感は筋違いだとも言えます。これは昂揚的な戦争モノという以上の、「義」に命を捧げたひとりのユニークな軍人と、彼に惹き寄 せられ協力を惜しまなかった中国・日本双方の人々と家族とその子どもたち、60年以上たった今につらなる幾筋もの数奇な人生と隠蔽されてきた真正の歴史と をリアルタイムに掘り起こしてゆく、珠玉のドキュメンタリーなのですから。
「ヤン・ウェンリーは何かと欠点の多い男ですが、何者も非難しえない美点をひとつ持っています。それは、民主国家の軍隊が存在す る意義は民間人の生命を守ることにあることにある、という建前を本気で信じこんでいて、しかもそれを一度ならず実行しているということです」(中略)
「エル・ファシルでもそうだった。イゼルローン要塞を放棄するときもそうだった。ひとりとして民間人に犠牲を出しておらん」
歴史は、ヤンを、ラインハルト・フォン・ローエングラムに匹敵する、あるいはそれ以上の戦争の芸術家として記憶するであろう。だが、それ以上に後世にむかって語らねばならぬことがあるのだった。(「銀河英雄伝説」第7巻87頁より)
<(前略)余りの奇遇に彼の話が終るのを待って、その時に貨物列車に乗って張家口を脱出した邦人の中の一人は私であった。 よくぞあの時に敵を喰い止めて時間を稼いで呉れた。その為に尊い犠牲になって戦死した人達のお陰で無事に天津迄逃げられた、とお礼を言った>
多くの犠牲を払いながら、在留邦人を守り抜いた駐蒙軍の奮闘は、こうして今も「命」をつなぐことができた人たちによって語り継がれている。(「この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」68頁より)
「古 寧頭の村民の命が守られたというのも根本さんがいたからだ、と思います。敗北を重ねるだけの国民党の将軍たちは、誰もが手柄を争っていました。(中略)共 産軍を殲滅させることに必死で、誰も村民の命を守ろうなど考えていなかったと思います。だから根本さんのような戦略をとろうという人はいなかった。根本将 軍は、犠牲を軍人だけにとどめようとした。彼の素晴らしい点はそこです」(同書266頁より)
wiki
高級将校時代
二・二六事件後の陸軍再編により原隊の連隊長に就任、日中戦争後は専門である支那畑に復帰、終戦に至るまで中国の現地司令部における参謀長や司令官を長らく務めた。
1944年11月、駐蒙軍司令官に就任。翌1945年8月のソ連軍の満州侵攻は、8月15日の日本降伏後も止まらず、同地域に滞在していた同胞4万人の命が危機に晒されていた。ソ連軍への抗戦は罪に問われる可能性もあったが、生長の家を信仰していた根本は『生命の実相』 よりそのような形式にとらわれる必要はないと考え、罪を問われた際は一切の責任を負って自分が腹を切れば済む事だと覚悟を決め、根本は「理由の如何を問わ ず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う」と、日本軍守備隊に対して命令を下した。途中幾度と停戦交渉を試みる が攻撃を止まないソ連軍に対し、何度も突撃攻撃を繰り返しソ連軍の攻撃を食い止めながらすさまじい白兵戦を繰り広げた。、更に八路軍(中国共産党軍の前身)からの攻撃にも必死に耐え、居留民4万人を乗せた列車と線路を守り抜いた[2]。8月19日から始まったソ連軍との戦闘はおよそ三日三晩続いたものの、日本軍の必死の反撃にソ連軍が戦意を喪失した為、日本軍は8月21日以降撤退を開始、最後の隊が27日に万里の長城へ帰着した。出迎えた駐蒙軍参謀長は「落涙止まらず、慰謝の念をも述ぶるに能わず」と記している。一方、20日に内蒙古を脱出した4万人の日本人は、三日三晩掛けて天津へ脱出した。その後も引揚船に乗るまで日本軍や政府関係者は彼らの食料や衣服の提供に尽力した。
引揚の際、駐蒙軍の野戦鉄道司令部は、引き揚げ列車への食料供給に苦心していたとされる。8月17日頃から、軍の倉庫にあった米や乾パンを先に、沿線の各駅にトラックで大量に輸送していた。また、満州では関東軍が8月10日、居留民の緊急輸送を計画したが、居留民会が短時間での出発は大混乱を招く為に不可能と反対し、11日になってもほとんど誰も新京駅に現れず、結局、軍人家族のみを第一列車に乗せざるを得なかった。これが居留民の悲劇を呼んだと言われる。尚、前任の下村定陸軍大将が最後の陸軍大臣になった事を受けて8月19日、北支那方面軍司令官を兼任する。 1946年8月、根本は最高責任者として、在留邦人の内地帰還はもちろん、北支那方面の35万将兵の復員を終わらせ、最後の船で帰国した。
by hinokawaz
| 2014-07-10 15:28
| 政治
|
Comments(0)